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菊港・波しぐれ三度笠

日本海側に現存する数少ない石造防波堤

赤碕にある菊港は、承応年間(1652~1655)に藩倉と船番所が設置された鳥取藩十湊の1つで、藩米を江戸、大阪に輸送する重要な港であった。しかし、その頃は防波堤などの港湾施設はなく、”はしけ”によって沖合に停泊した千石船に積み替えを行っていたと推測される。その後、享保元文(1716~1741)頃に東堤が、時代は不明だが西堤が築造され、現在のように八の字型をした菊港が完成した。寛政元年(1789)と寛政3年(1791)には、修築のため藩の御船手段が見分をしており、文政(1818~1830)年頃に西堤が改築された。弘化2年(1845)の「伯州八橋郡赤崎浦湊繒圖」には、西堤は根元部分に開口部が設けられた離岸堤として描かれれている。これは、港内の堆砂を防ぐため海水の流れを確保する潮廻しで、現在は逆に東堤に潮廻しが設けられ、西堤は岸につながっている。防波堤はいずれも、人の頭ほどある大きさの玉石を積み上げたもので、何度か改修を受けながらも江戸期の構造を今に伝えている。平成22年10月に菊港東堤と西堤が(社)土木学会推奨土木遺産に認定された。

菊港の名称の由来・波しぐれ三度笠

菊港の名称は地元の豪商・河本長兵衛の妻「菊姫」(松江藩主堀尾家の一族)に由来する。河本長兵衛は、元は大庄屋であったが、江戸の大火により鳥取藩邸が消失した際、材木の調達・運搬を行い、その後も海運業を営んだ人物で、彼が港の改修に関わったとされる。

東突堤先端部には流政之氏作の「波しぐれ三度笠」(県景観百選)が海に向かってそびえ立っている。

琴浦町赤碕「菊港」波しぐれ三度笠物語

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