古来より人々に愛される素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る拝殿天井には日本一の長さを誇る16mの龍の彫刻
神﨑神社の起源は室町時代の説もあるが定かではない。棟札の最古のものは元禄15年(西暦1702年)に遡る。その頃、神仏習合の時代において、この神社は『三宝大荒神(サンポウダイコウジン)』と呼ばれていた。そして明治元年以降、その名を『神﨑神社(かんざきじんじゃ)』に変え、地元の人々に親しまれる愛称として『荒神(こうじん)さん』が定着した。
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遡ること176年前、江戸時代後期・嘉永元年(西暦1847年)現存する本殿の建設が始まった。この時携わったのは、鳥取藩に仕える優れた大工たち。
当時、鳥取を治めていた池田藩の初代藩主池田光仲公は徳川家康公の実の曾孫にあたる。徳川家康公といえば、栃木県日光市にある日光東照宮。家康を神格化した東照大権現(トウショウダイゴンゲン)を主祭神として祀られていることでも有名。
日光東照宮社殿には、「見ざる 聞かざる 言わざる」の三猿や眠り猫など、様々な動物の木彫像がみられ、徳川家と深く関係のあった鳥取池田藩は、もともと宮大工ではなかった彼らを勉強に行かせ、日光東照宮の分院である鳥取東照宮を建設、そののち神﨑神社の建設が行われたと考えられる。
大工たちは本殿の建設を始めるが、鳥取城下で木材を丁寧に加工したものを賀露港から菊港に運び神﨑神社で組み上げていた。
本殿完成まで、6年の歳月を要することとなる。
本殿は、一間社入母屋造(いっけんしゃいりもやつくり)で造られ、総ケヤキ造りである。
本殿には植物をはじめ動物や大黒様、恵比寿様など43種類の縁起のいい木彫刻が丹念に刻まれている。 -
本殿の完成から26年が経過し、拝殿の建設が着手されることとなる。この重要な作業を引き継いだのは、なんと本殿を築いた大工たちの孫たち。長い歳月を経て、新たな時代において拝殿の誕生が実現する。
孫たちは、拝殿の建造に際して、御祭神であるスサノオノミコトにふさわしい木彫像を制作することを心に決める、彼らは、海にまつわる3つのテーマに焦点を当て、緻密な木彫刻を施した。
拝殿正面の大注連縄の上には、竜宮城や乙姫様、浦島太郎など、まるでおとぎ話から飛び出してきたかのような彫刻が施されている。また、拝殿入り口向かって右側には、日本の第14代天皇・仲哀天皇(チュウアイテンノウ)の皇后である「神功皇后(ジングウコウゴウ)」の姿が施されている。彼女は大和王権に対抗していた熊襲(クマソ)の地域へ向かう途中、仲哀天皇の崩御に遭遇、その意志を引き継いで熊襲征伐を果たした。神功皇后は、身重の体で海を越え、新羅へ攻め込んで百済や高麗を服属させる勇姿が施されている。
拝殿入り口向かって左には、「武内宿禰(タケノウチノスクネ)」の姿がある。武内宿祢は仲哀天皇に仕え、彼の意志を引き継いで神功皇后を支えました。天皇が亡くなり皇后が戦いに赴くという状況に困り果てた武内宿祢は、海の神様たちが住む住吉大社から助言を受け、神功皇后のお腹の赤ちゃんを大切に育てることを決意する。この約束は守られ、武内宿祢は無事に子どもを育て上げ、その子は後の第15代応神天皇となる。彼は戦いに強い神様「品陀別命(ホンダワケノミコト)」として、全国の八幡神社で崇められる存在となった。
拝殿入り口には、武内宿祢がしっかりと抱く応神天皇の幼な児姿が彫られており、その情熱と奉仕の精神が木彫刻に込められています。
拝殿向拝天井には、幸福をもたらすと伝えられる巨大な龍が壮麗に施されている。最新の技術で龍の長さを計測した結果、何と16メートルに達し、日本一の長さを誇る。龍が握りしめる巨大な如意宝珠は、神聖なる玉として知られ、様々な願いがかなうと伝えられている。まさにドラゴンボールである。玉の真下に印があり、この場所はパワースポットとして崇められている。
神﨑神社はかつて、海の神として漁師たちによって崇敬されていた。いつしか農家の人々も大切な牛馬を神聖なる存在として守ってほしいと願うようになり、神社は牛馬の守護神としても祀られるようになる。牛馬信仰は鳥取県中部から西へと広がり、島根県境・広島県境・岡山県境からも一年に一度、多くの参拝者がこの神社を訪れるようになった。かつては月に一度行われる牛馬市で、神﨑神社は遠方からの参拝者でにぎわっていたと伝えられている。
本堂天井に施された大きな一匹の龍。謎の絵師 玉雲斎の描いた龍は、大きな眼を見開き人々を守りつづける
大梁山 清元院(ダイリョウザン セイゲンイン)。悠久の時を超え山間に佇む。今から約600年前、室町時代(西暦1400年頃)、備前の国(現在の岡山県東部)より、毛利勢に追われた池田七郎定久という武将がこの地を訪れる。
七郎定久は、大仏山(清元院から真西の山)の山頂に「大仏山真道成仏の城(ダイブツザンシンドウジョウブツノシロ)」という城を築いた。
築城後30年ほど栄えていたが、大永4年(西暦1524年)に起こった大永の五月崩れ(ダイエイノサツキクズレ)の合戦により落城。伯耆一円が尼子領となる中、七郎定久をはじめとする12人の家来達は高木家(旧以西小学校前の池田家)にかくまわれ再興の時を待つが、やがて毛利の追っ手にとらえられる。その際、七郎定久はここで果てるか、武士を捨て家来の命を助けるかの選択を迫られる。苦渋の選択の末、武士を捨てる決意をした七郎定久は、高木家の婿となり、城があった所から見下ろす場所に清元院を建立し、戦で命を落とした家来の弔いをして生涯を終えた。
開創は、室町時代中期(西暦1440年頃)山陰地方で初めてできた曹洞宗寺院・退休寺(旧中山町)より西来院三世 無塵良清(むじんりょうせい)大和尚を迎え開山された。
御本尊は釈迦三尊(中尊:釈迦牟尼仏、脇侍:文殊菩薩、普賢菩薩)が祀られている。
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本堂には、江戸時代後期、水墨画「龍渓図」が絵師・玉雲斎によって描かれた。寺院の中で最も重要な本堂を守るようにとぐろを巻き、大きく目を見開いて何かを見つめている。
龍が雲を呼び雨を降らすといわれることから、本堂に集まった人々に仏法の雨がふりそそぎますようにとの願いを込めて施されたとされている。落款に書かれた「一心不乱」の文字が、龍渓図を描いている時の玉雲斎の心境をうかがい知ることができる。 -
清元院は教育の寺と呼ばれ、江戸時代後期までは住職が師となり寺子屋として手習いを行っていた。明治5年に「学制」が発布され、全国に学校が整備され、清元院は明治6年より今地小学校(のちの以西小学校)として開校した。
明治26年には、以西尋常小学校と改称をし、当山13世白翁月珊大和尚(大蔵月珊氏)が第4代校長となる。
現在の以西小学校が建設されるまでの30年間、たくさんの子どもたちが通い勉学に励んでいた。当時使用されていた、学校日誌や授業計画などが資料として残されている。以西小学校移転後も寺は教育に尽力し、終戦後も習字や花嫁修行(裁縫、茶華道など)に人々が訪れていた。
清元院には、庭園「古流・学問の庭」という庭園があり、その景色は一年を通して参拝客の目を楽しませてくれている。
春には紫の岩藤、秋には深いグリーンの苔庭に、鮮やかな黄色のツワブキが満開になる。
庭には「方池」とよばれる長方形の池があり、そのルーツは古代インド。日本には飛鳥時代に仏教とともに伝わった。
日本では、奈良県明日香村にある島床遺跡の他に5つほど確認されているが、現存する日本庭園に長方形の池があるのは非常に珍しい。清元院の庭は「世界一の狭小庭園」とされ令和元年に庭園研究家・青木清輝氏により公表された。
清元院では、年間通して沢山のイベント行事が開催される。毎月定期的に行われている、写経・写仏・切り仏の会、坐禅会、お寺ヨガの会。年間イベントとして、お地蔵様作り教室(年2回)、はすとも(境内にある蓮の花の植え替えボランティア)、お大師講(約100年前に以西地区にお迎えしたお大師様を清元院に一同に集め行う法要)、月明かり茶会(中秋の名月当日に行われる)など、他にもたくさんの行事が行われる。
人が集まることと自然をこよなく愛し、山門に「縁をつなぎ安心をとどけるお寺」の看板を掲げ、講演会や多彩な行事イベントが定期的に行う、清元院17世住職井上英之さんの優しい人柄が伝わってくる。
山門前の畑では、毎年春は菜の花、秋になるとコスモスが満開になり、たくさんの人たちが花を愛でに訪れる。
「お寺の前を荒してはいけない」と、門前の耕作放棄地に花の種をまいてくれるのは、地元の人たちだそうだ。
清元院の駐車場に特設されたベンチにすわり、花を眺めながら話に花を咲かせる地元の方々に昔から大切に愛されてきた清元院、是非一度訪れてみてほしい。
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◆ 神﨑神社
【住所】〒689-2501 鳥取県琴浦町赤碕210
山陰自動車道 琴浦船上山I.Cから車で5分 -
◆ 清元院
【住所】〒689-2522 鳥取県東伯郡琴浦町宮木57
山陰自動車道 琴浦船上山I.Cから車で7分
お問い合わせは、琴浦町観光協会まで
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